鈴木 康夫
私の恩師,大原健士郎先生は平成22年1月24日,多臓器不全のためご逝去された.享年79歳であった. 高校時代に英語の副読本で読んだ「チップス先生 さようなら」(ジェームズ・ヒルトン1934年)になぞらえて,このお別れの文章を書かせていただきたい.
大原健士郎教室の一員として31年間を過ごしてきた私には,この「チップス先生さようなら」の小説と大原健士郎先生の姿がオーバーラップする.チップス先生も大原先生も,共に教育熱心であったこと,周りから初めは理解されなかったこと,最愛の奥様を亡くされたこと,そして次第に彼の魅力に周りが惹かれてゆくことなど共通点がある.
昭和51年に新設された浜松医大精神神経科教室は,まだ小規模なもので,全寮制のパブリックスクールのように親密な医局だった.私は昭和54年,教室の第一期として,加藤政利君(千本病院長),鈴木康訳君(湘南こころのクリニック),日吉俊夫君(静岡東病院てんかんセンター)と共に入局した.当時は藍沢鎮雄助教授,宮里勝政講師,太田龍朗講師,里村淳助手,石川元助手という陣容であった. 入局後,直ぐに大原先生は日本精神神経学会の総会を開催され,次には日本社会精神医学会,その次には家族療法学会,病跡学会,森田療法学会,国際森田療法学会,アルコール精神医学会,精神衛生学会など2~3年に1度は学会長をつとめられた.医局員の中からシンポジストが選ばれ,研究にも拍車がかかった.私たちにとっては大変だがやりがいのある仕事で,また全国の先生たちと交流することが楽しみでもあった. 医局員は次第に増え,大原健士郎先生が退官された時には総勢160人以上にのぼった.関連病院も30近くにも及び,北海道から沖縄まで医師を派遣していた.
大原先生のご趣味は,エッセイの執筆と旅行であった.浅井病院の浅井邦彦先生とは旅行を通じて懇意にされていた.メンタルヘルス岡本記念財団の岡本常男さんとは,中国に何十回も行かれ,森田療法を広める活動をされていた.富子夫人とたびたび国際学会へご一緒にお出かけになり,私もご一緒させていただいたことがあった.お二人は仲むつまじく,大原先生も外国では教授の裃を解かれて,楽しんでいらっしゃった.
医局の隆盛が続く中で,昭和61年には最愛の奥様を肉腫で亡くされた.以来大原先生はお亡くなりになるまで,佐鳴台のマンションで独り暮らしをされた.その御経験を「おれたちは家族」にまとめられた.このエッセイは後にNHKで「家族」というドラマ(1992年9月15日放送)となり,児玉清さん,長山 藍子さんの出演で好評を博した.また,独り暮らしの日常を日経新聞のエッセイに書かれ,後に「シングルライフ 孤独を生きる」として出版された.私たち医局員には,愚痴を言われない方であった.しかし,夕暮れの医局でお独りで泣いていらっしゃるお姿を一度だけ見かけたことはある.
平成8年退官された後は,月照庵クリニック,横浜相原病院,聖明病院に勤務され,また執筆活動にも熱中されて,たくさんの本を出版された.現在もまだ星和書店から大原健士郎選集が継続して発行される予定である. 平成20年10月23日 ,膀胱癌の検査のために入院する大原先生から,「これは遺言だ」と言われ,「最新精神医学に『私の恩師』というテーマで君が書きなさい」そして「浩市(大原浩市先生:広小路メンタルクリニック院長)のことを宜しく頼む」とのことであった.この時,私は大原先生がお亡くなりになることなど考えてもいなかった.教授時代から結核,糖尿病,心筋梗塞などと闘われ,克服されたと思っていた.大原先生は本当に準備のよい方であった.
私の恩師大原健士郎先生は「温かくて」,「激しくて」,「情のある」,「御自分に厳しい」,「博覧強記の」,「ギャンブル好きな」・・・・この後いくつでも形容詞を続けることができるが,そのお人柄については,私の駄文をここに掲載させていただくよりも,多くのエッセイの中にご自身が書かれている. 今でも月照庵クリニックの大原先生のお部屋から,ひょっこり出てこられて,楽しいお話しをしてくれそうな気がしてならない.私にとっては,まだ亡くなったことが信じられないのである.
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